江戸の粋が生み出した、エシカルな逸品。

伊勢本街道と熊野街道の分岐点として賑わいを見せたかつての玉城町。 当時は、和紙を動物の革に似せて加工した「疑革紙」で作られた紙煙草入が参宮土産として大人気となりました。 擬革紙は、1684年(江戸貞亨元年)に初代堀木忠次郎(三島屋・後の三忠)が、江戸時代に、長崎を通じてヨーロッパから輸入されていた装飾革を模造し、油紙を加工して製造したのが始まりと伝えられています。 当時の街道には、100軒ほどの煙草入れ商が軒を並べるほどの賑わいで、中でも、西山六兵衛が開業した「相六」は、その代表的な店として大変重宝されました。 疑革紙の製造は大変な労力を必要としましたが、当時の相六の紙煙草入れの生産量は、1年間で2万2千個、村全体の総生産量は5万個にもなりました。 1個の値段が平均10銭でしたから、村全体の総生産額は5,000円(現在の金額で約1億円相当)にもなったという記録が残っています。 さらに、明治に入って、擬革紙の壁紙がヨーロッパへ輸出され、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では、見事に金賞を受賞しました。

時代背景も相まって、大ヒットした擬革紙ですが、明治に入ると、村に鉄道が敷かれ、道者の往来がなくなると、宿場町の衰退とともに現在では当時のおもかげさえも見られなくなり、加工技術が途絶えてしまいました。 そこで、当時の参宮土産を現代によみがえらせようと、参宮ブランド「参宮ブランド擬革紙の会」が発足され、擬革紙の再興に取り組んでいます。 三忠が生み出した革そっくりの擬革紙。 しかし、秘伝とされるその製法は、これまで口伝えで受け継がれ、記録が残っていませんでした。 そこで擬革紙の会では、和紙の専門家や専門機関から助言を受け、三忠の子孫・堀木家の自宅の蔵に保管されていた貴重な擬革紙を細かく分析し、試行錯誤を繰り返しながら、再現に取り組んできました。

擬革紙作りの作業は、和紙にしわを付けるための型紙作りから始まります。 厚手の紙を貼り合わせて等間隔で溝を作り、強度をさらに高めるため、照りつける太陽の下、柿渋を両面に塗っては乾かす作業を100回近くも重ねていきます。 そうして完成した型紙に和紙を押しつけて革のような質感を出し、顔料や漆などを塗って、ようやく擬革紙ができあがります。

擬革紙の会と丸川商店は、今後もさらに加工技術を高めて、全国へのPRと、次世代への継承を目標に掲げ、活動を続けています。

PAGE TOP